宗教問題

宗教的無関心は国家の死角である

日本は四方を海に囲まれた島国であり、長らく異民族の侵入を受けにくい地理的特性の中で、独自の信仰文化を育んできた国であります。神仏習合に象徴されるように、我々の祖先は信仰の違いを巡って争うことなく、互いの信念を尊重し、調和を以て共に生きてまいりました。その精神は、国家の秩序と文化を支える土台として連綿と受け継がれ、まさに日本の美徳と呼ぶに相応しいものでありました。

この日本人の美徳とは、単に信仰の寛容にとどまらず、日常生活における思いやり、敬語、相手を尊重する所作、慎み深さなどにも表れております。これらは宗教による規範ではなく、民族の心から自然と生まれた道徳観であり、人として誇るべき精神文化であります。

しかしながら、海外に目を向ければ、こうした美徳感覚はほとんど見られず、その代わりに宗教的戒律にしがみつくことで社会秩序を保とうとする姿が目立ちます。道徳が宗教に依存しなければ維持できない国々では、信仰が過激化すれば暴力に変わり、反対に失われれば無秩序と堕落に陥ります。それに比べ、日本人の持つ内面からの律し方、他者への配慮、無宗教的でありながら道義を保てる心性は、世界の中でも特異であり、極めて高い精神文化の証左であります。

しかし近年、この日本的美徳はマスメディアや国際的風潮によって「奇異なもの」「時代遅れのもの」として揶揄され、若者を中心に失われつつあります。それに流されて、日本人が自らの精神文化に誇りを持てなくなってしまえば、宗教に依存しない道義国家としての強さを失い、他国の価値観に呑まれていくことになるでしょう。

だからこそ、いま一度声を大にして言わねばなりません。日本人の美徳は、時代遅れでも恥ずかしいものでもなく、むしろ世界に対して誇示すべきものであります。信仰に縛られずとも秩序を保ち、他者を尊び、礼節を重んじるこの精神性こそ、日本の真の力であり、他国の模倣では決して得られぬ国体そのものであります。

そして、令和の現代において、この調和の精神は急速に失われつつあります。日本人は、宗教的儀礼の多くに日常的に接していながら、それらの意味や思想に対してあまりにも無頓着です。生まれたときは神道で初宮参りを行い、結婚式では教会で賛美歌を歌い指輪を交わし、死ぬときには仏教式で戒名を与えられる。このような混在と形式主義が、日本人に宗教とは何かを真剣に考えさせる機会を奪い、信仰をただの「行事」として空洞化させているのです。

本来、こうした形式の多様性は寛容の象徴でもありました。しかし現代の日本では、それが逆に宗教的鈍感さを助長し、外国宗教勢力の巧妙な介入に対する抵抗力を著しく損なっています。国民の宗教観は、もはや思想や倫理ではなく、「なんとなくの慣習」へと堕してしまっているのです。

さらには、マスメディアが宗教を単なる話題性の一つとして取り上げ、面白おかしく扱うことで、宗教という本来神聖であるべき領域が、娯楽や風刺の対象へと貶められています。この風潮は、宗教に対する敬意と警戒心の両方を奪い去り、国民から信仰に対する深い洞察力を奪っています。国の精神を支える要素としての宗教の重みが忘れ去られ、「信じる者が滑稽に見える」という社会的圧力すら生まれているのが現実です。

世界を見渡せば、宗教対立を引き金とした民族紛争、宗派間の戦争、さらには移民社会における価値観の衝突は後を絶ちません。宗教が原因で婚姻が禁じられ、国家間の協調が妨げられることも多く、宗教は国家の安全保障に密接に関わる要素であることは、国際社会の常識であります。

それにもかかわらず、我が国ではその認識が欠如しております。昭和初期には大本教が国家神道の枠を逸脱し、天皇の神聖性に挑む教義を広めたことで、特高警察による摘発を受けた歴史があります。戦後には、信仰の自由を盾にした新興宗教が乱立し、国家の精神基盤を揺るがせました。

平成7年(1995年)、村山富市政権下において発生したオウム真理教による地下鉄サリン事件は、化学兵器による国家転覆未遂という未曾有の国内テロでありました。そして現在に至るまで、韓国系宗教団体・統一教会(現・世界平和統一家庭連合)による精神支配と家庭破壊が国民の生活を脅かし続けております。

これほどの被害と歴史的教訓が積み重ねられていながら、日本人はなおも宗教を「自分とは関係ないもの」として遠ざけ、宗教が外交摩擦や主権侵害の火種ともなり得るという現実を直視しておりません。このままでは、宗教を武器とする外国勢力に対して、日本は何の備えもなく、精神的・文化的に蹂躙されていくことになります。

信仰の自由は日本国において守られるべき価値であります。しかしそれは、国家秩序と国民の道義に根ざしたものでなければなりません。日本人に許される信仰の自由とは、国家を支える精神的基盤の上にこそ成立するものであり、外国勢力による宗教侵略を容認するものでは決してありません。

国家とは、単なる領土や経済の集合体ではなく、精神、歴史、信仰、文化を共有する国民の絆によって成り立つものであります。その文化の根幹に宗教が深く関与してきた以上、宗教を軽視し、放任するということは、国家の精神的背骨を自ら削り落とすに等しい愚行であります。

かつての日本人が示してきた「信仰を強制せず、調和をもって共に生きる精神」は、国家の強さであり、文化の誇りでありました。その精神を今一度取り戻し、信仰を国家秩序と結びつけ、健全な宗教観を育み、外国勢力の介入に毅然と立ち向かう覚悟を国民一人ひとりが持たねばなりません。

日本人は宗教的無関心という国家的死角に、いまこそ光を当てるべき時であります。調和を失った自由は無秩序に他ならず、国家の背骨たる精神の崩壊に繋がります。

そして、マスメディアがどのように宗教を扱い、社会がどのように宗教を見てきたかを理解した上で、我々日本人は何を信じ、何を守るべきかを真剣に選び取らねばなりません。


信仰の自由を守るとは、すなわち国家の秩序と誇りを守るということであり、日本という国を強くするための責務であることを、深く自覚すべきであります。